文学・文学研究のについて思うこと。悩み。

今回は私が最近考えていること、悩んでいることについて少しお話しようと思います。

少し陰鬱な話になると思いますので、嫌な方はブラウザバックを。

 

ちなみにこの話は「文学・文学研究の意義」はこうだ!と謳ったものではないので、ご了承ください。

文学・文学研究の携わる者の個人的な悩みです。

 

***

 

私は現在大学院生で、日本近代文学を専攻しています。

まだ修士課程ですので、文学研究者といってもまだまだ未熟のペーペーです。

それでも文学には人生について考える、考えさせてくれる力はある思うことから、この道を歩んでいます。

 

しかし、世の中の文学に対する風当たりは強く、なかなか理解してもらうことは難しいようです。

周りから

「そんなことをやってなんの意味があるのか」

「文学研究なんて無駄だ」

ということを面と向かって言われることも多々あります。

「文学研究者なんで言葉を弄しているだけで、研究でもなんでもない」なんてことも言われました。

 

こう言われることが結構ショックで、苦しんでいます。

というのも、私は神経が細く臆病であり自身がない人間だからです。

また頭の回転も速いわけでもなく、反論することがなかなかできない。

 

割り切ればいい話なんでしょうが、なかなか割り切ることができない人間です。

 

苦しいです。

 

文学の風当たりが強いのは、きっと文学が曖昧ではっきりしないものを掴もうとする学問なのだからでしょう。

なんだかよくわからないものは排除する、臭いものに蓋をするというのが世の中の風潮なんだと思います。

その風潮に文学はなじまない。

だからこそ上のようなことを言われてしまうのだと思います。

 

しかし、世の中のすべてが分かりすく、説明できるものなんでしょうか。

なぜ人は恋をするのですか?

なぜ人のために力を尽くすのですか?

なぜ人の死は悲しいのですか?

幸せってなんですか?

 

このような疑問を分かりやすく簡潔に説明することは難しいんじゃないでしょうか。

そしてその答えは人それぞれだから悩みは尽きない。

そんな悩みから文学が生まれてきたのだと思います。

 

しかし一方で、文学が所謂大衆一般にまで十分に開かれていないことはそれはそれで批判されなければいけないでしょう。

もっと大きく言えば、人文科学にも当てはまることです。

そうでないと、文学という学問はただの趣味ということになってしまいます。

 

でも、今の私には声を大きくして「文学・文学研究はは意義がある」と言えるほどの力がありません。

どうすればいいのか答えが出ず、悶々としています。

 

***

 

私は将来この道を進み続けるのか分かりませんが、

きっと「文学・文学研究の意義とは何か」という問題は私のなかでくすぶり続けるのだと思います。

 

皆さまはどのように考えるでしょうか。(そもそもこのブログを見ている人は皆無かもしれませんが・・・。)

もしよろしければ、コメントをください。

 

***

 

たわいもない戯れ言ではありましたが、

文学について思い悩み、苦しんだ人間がここにいたと跡を残しておければいいと思います。

そして、このように悩む苦しむことこそが文学の本質だと信じています。

 

 

 

 

 

 

横光利一「春は馬車に乗って」

今回は横光利一の「春は馬車に乗って」です。

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横光利一と言えば、新感覚派として有名な作家です。

作品としては「蠅」や「日輪」が有名でしょうか。

 

「春は馬車に乗って」は1926年に『女性』という雑誌に掲載されたものです。

 

本作は病に伏せた妻とその夫の話です。

妻は病のために一日中天井を見つめる生活をしています。彼女は病気の苦しみからか「檻の中の理論」というものを持ち出し夫を責め立て困らせます。そんな妻にを落ち着かせため夫は理性的な対応をしながら、看病をするというのがこの話の大筋です。

 

この「檻の中の理論」というものがまた強烈です。

「ところが、俺が譬えば三分間向うの部屋へ行っていたとする。すると、お前は三日も抛ったらかされたように云うではないか、さア、何とか返答してくれ」

「あたしは、何も文句を云わずに、看病がして貰いたいの。いやな顔をされたり、うるさがられたりして看病されたって、ちっとも有難いと思わないわ」

「しかし、看病と云うのは、本来うるさい性質のものとして出来上っているんだぜ」「そりゃ分っているわ。そこをあたし、黙ってして貰いたいの」

「そうだ、まあ、お前の看病をするためには、一族郎党を引きつれて来ておいて、金を百万円ほど積みあげて、それから、博士を十人ほどと、看護婦を百人ほどと」

「あたしは、そんなことなんかして貰いたかないの、あたし、あなた一人にして貰いたいの」

「つまり、俺が一人で、十人の博士の真似と、百人の看護婦と、百万円の頭取の真似をしろって云うんだね」

「あたし、そんなことなんか云ってやしない。あたし、あなたにじっと傍にいて貰えば安心出来るの」

「そら見ろ、だから、少々は俺の顔が顰(ゆが)んだり、文句を云ったりする位は我慢しろ」

「あたし、死んだら、あなたを怨んで怨んで怨んで、そして死ぬの」

「それ位のことなら、平気だね」

 上の引用は妻の「檻の中の理論」が現れている場面でありますが、看病している夫に向かってこんな理論を持ち出されたら、看病している方はまいってしまいますよね。

けれど、夫はなんとか自分を納得させながら妻の看病と、仕事(作家業)続けます。

 

そんな看病生活のなか、ついに医者から妻の命が続かないことを知らされます。

 妻の死期を知らされた夫は、ショックすぎて彼女の顔をまともに見られなくなります。

「二人の間の扉は閉められる」と作品中で表現されていますが、愛する人がいなくなるという感覚はどのくらい耐えがたいものなのでしょうか。

私はまだそのような経験がありませんが、きっと世界が終わるくらいのものなんでしょうね。

つらい、つらいものなのだと思います。

 

夫妻は死を覚悟します。

そしてある日、そんな二人のもとに知人から赤いスイートピーが届けられます。

 長らく寒風にさびれ続けた家の中に、初めて早春が匂やかに訪れて来たのである。

彼は花粉にまみれた手で花束を捧げるように持ちながら、妻の部屋へ這入っていった。

「とうとう、春がやって来た」

「まア、綺麗だわね」と妻は云うと、頬笑みながら痩せ衰えた手を花の方へ差し出した。

「これは実に綺麗じゃないか」

「どこから来たの」

「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ」

 妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として眼を閉じた。 

 以上のように物語は閉じられます。

 

この話では、冒頭にはダリヤ、最後にはスイートピーというように花が登場します。

ダリアは夏から秋にかけて咲く花であり、スイートピーは春の花として知られていますが、これは季節の流れを示すものでしょう。

 

花が咲き枯れまた咲くように、2人の人生が幸せでも不幸せでも、時間は進んでしまうんですよね。

 

それでも、「恍惚」とした彼女の顔を見れば、彼女は幸せだったのだと思います。そして、そんな彼女の顔はきっと世界で一番美しいものだったんじゃないんでしょうか。

 

悲しくも人を愛することの大切さを教えてくれる物語でありました。

気になったかはどうぞ読んでみてください。

 

***

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

谷崎潤一郎『卍』

今回は谷崎潤一郎『卍』です。


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谷崎潤一郎といえば、どんなイメージをお持ちでしょうか。

やはり有名な「春琴抄」や「痴人の愛」などからマゾヒズムやエロティックなイメージをお持ちの方が多いかもしれません。

今回紹介する『卍』もその期待を裏切らない変態性癖が描かれた作品であります。

 

「卍」と聞くと何年か前に流行った若者言葉が思い出されますね笑

本来は「インドに伝わるめでたいしるし」と意味があり、仏の胸に描がかれ、万徳の相を表わすものとして知られているそうです。

他にも「卍形のもの」や「紋所の名」といった意味があります。

また、「卍」という言葉はよく「まんじ巴」といって使われますが、

はてさて、谷崎の『卍』にはどんな意味が込められているのでしょうかね~。

 

谷崎潤一郎『卍』は雑誌『改造』に1928年3月から1930年4月までに断続的に連載された作品です。

文体は大阪弁を基調とした作品で、慣れるまで少し読みにくいかもしれません。

関西育ちではない私は面をくらいました笑

しかし、さすが谷崎といいますか、読んでいるうちに大阪弁の響きが美しく聞こえてきます。不思議なものです。

 

そして大阪弁が使われているとおり、話は大阪が舞台です。

主な登場人物は柿内園子、徳光光子、柿内孝太郎、綿貫栄次郎の4人です。

まずは柿内園子という女性です。

『卍』は彼女の、誰か分からない「先生」に向けられた〈告白体〉という形式で進んでいきます。彼女は夫・柿内孝太郎がいながらも、美術学校で知り合った徳光光子と性的関係を持ちます。

そう同性愛です。

「なんと美しい同性愛だこと」とそれだけ終わるならわけはないのです。

この徳光光子がまた癖もので、魔性の女なのであります。

というのも園子と関係を持ちながら綿貫栄次郎という男とも関係を持っていたのです。

園子は光子に振り回されながら、光子と栄二郎の情事のいざこざに巻き込まれていきます。さらには、園子の夫である孝太郎までも引きずり込まれ、関係はめちゃくちゃに・・・。

 

この小説の面白いところは、、誰が本当のことを話しているのか分からず登場人物が疑心暗鬼になっていくのと同時に、関係がまるで「卍」のように深く入り組んでいくところです。特に、小説終わりは次々と話が展開するため圧倒されます。

 

ドロドロした人間関係の行き着くところを煮詰めて描いたような作品であり、付き合う相手は気をつけなければと思わせるような話でした。

気になる方は是非、お手にとってみてはいかがでしょうか。

 

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久しぶりにブログを更新しました。

なかなか忙しくて気が付いたら2ヶ月も・・・。

夏は少し時間が取れそうなので、少しづつ書いていきたいと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!

 

 

佐藤利行 越智光夫『胡蝶は夢なのか―知っておきたい中国故事』

本日はこちら。

佐藤利行 越智光夫『胡蝶は夢なのか―知っておきたい中国故事』(2021年2月、中央公論新社)です。

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故事成語と言えば、どんなものが思い浮かぶでしょうか。

本書のタイトルである「胡蝶の夢」や「虎の威を借る狐」なんてものは、

国語の授業でならったことがある人がほとんどだと思います。

 

そもそも故事成語ってなに?っていう人はさすがにいませんよね…笑

 

そんな故事成語を、広島大学のお二人の先生が自身の経験を交えながら説明してくれている本になっています。

 

著者の一人、佐藤利行先生は、中国六朝文学がご専門であり、故事成語の説明だけではなく、典拠や著者も詳しく説明してくれているので、とてもわかりやすいです。また、広島大学副学長・理事(2021年5月現在)でもあります。

 

また、もう一人の越智光夫先生は、現在(2021年5月現在)広島大学学長であり、膝関節外科です。なので、医学的な観点からも漢文に言及しています。

 

お二人は大学を運営する立場であり、ところどころにその苦悩が垣間見えます。

特に、コロナなかでの大学運営は大変だったもよう。

しかし、そんな逆境にめげず、ひたむきに立ち向かってきたようです。

 

また、お二人の互いを尊敬し信頼し合っていることが伝わってきます。

本書のなかで「知音」という故事があるのですが、佐藤先生と越智先生の関係性を体現しているような故事で、微笑ましく思いました。

 

そんな二人が現代を生きていくためのヒントとしてきた故事成語が本書に書かれています。

また、教訓から戒めまで、現代の私達にも当てはまるような故事もあり、一度は手にとっても損はないと思います。

 

博学かつ情熱があるこんな先生方に教わることができる広島大学が羨ましい!

コンパクトで読みやすい一冊でした。

 

石川淳「普賢」

今回は石川淳「普賢」を読みました。

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石川淳(1899年-1987年)と言えば、太宰治坂口安吾と同じ無頼派に属する作家ですね。

「普賢」は1936年に書かれたもので『作品』6月号~9月号に掲載されました。

この作品は第4回芥川賞受賞作品でもあります。

2021年1月に発表された宇佐美りんさんの「推し、燃ゆ」が第164回ですから、かなり昔であることが分かりますね。

また、有名な「佳人」とともに石川淳初期の作品と称されています。

 

「普賢」の主人公・〈わたし〉は、私立大学を中退し、貧困のなか作家として食べていこうとします。

彼はジャンヌ・ダルクを崇拝する作品を作った女流詩人、クリスティヌ・ド・ピザンの伝記を書いている、いわば作家であります。その売れ行きは怪しいのですが。

彼は、ひょんなことからろくでもない人間達にあい、さまざまな生き方を眼にします。酒にいりびたっている人物や、モルヒネに溺れる妻を持つ男、不倫相手の愛人を取られる男など、その様子は多種多様です。

そして、なによりも〈わたし〉自身も「書く」ということについて、ずっと苦しんでいるのです。

そんなお話であります。

 

この作品は〈饒舌体〉というものがなによりも特徴的です。

その文章は息をつかせないほど、一文がながいです。

 盤上に散った水滴が変り玉のようにきらきらするのを手に取り上げて見ればつい消えうせてしまうごとく、かりに物語にでも書くとして垂井茂市を見直す段になるとこれはもう異様の人物にあらず、どうしてこんなものにこころ惹かれたのかとだまされたような気がするのは、元来物語の世界の風は娑婆の風とはまた格別なもので、地を払って七天の高きに舞い上るいきおいに紛紛たる浮世の塵人情の滓など吹き落されてしまうためであろうか、それにしてもこれはちょっと鼻をつまめばすぐ息がとまるであろうほどたわいのなさすぎる男なのだ。

出典元:石川淳『普賢・佳人』講談社

 

上の引用は、「普賢」の冒頭部分になりますが、ほんと長いですよね。

すごい読むのは大変だと思いきや、読んでいるうちにこれがくせになる。

いやはや、恐れ入ります、石川淳先生。

 

そんなくせになる「饒舌体」、実際に読んで確かめてみてください!

 

今回はこれで。

ではでは。

 

最後までよんでいただきありがとうございました!

 

 

名刺代わりの小説10選

本日は、「名刺代わり本10選」ということで、10冊の本を紹介です!

以前からTwitterでちょくちょく見るハッシュタグでしたが、そういえばやったことありませんでした。

 

以下、私の大好きな本たちです!

 

烏に単は似合わない/阿部智里
錦繡/宮本輝
鉄道員/浅田次郎
春は馬車に乗って/横光利一
桜の森の満開の下/坂口安吾
空色ヒッチハイカー/橋本紡
兎の目/灰谷健次郎
いまさら翼といわれても/米澤穂信
柚の花咲く/葉室麟
四畳半神話大系/森見登美彦

 

実際にやってみて、自分は古風な作品が好きなのだと思いました。

海外小説がない笑

 

それはさておき、好きな本を見るだけで、その人の人となりってなんとなく分かりますよね。不思議なものです。

私は人の家に行くと、いつもついつい本棚を見てしまいます笑

うーん、やっぱ本はいいなぁ。

 

さて、どうだったでしょうか?

ぶっちゃけ10冊では足りない!

もっと紹介したい!という気持ちが強いです。

まぁ、他の本はぼちぼちブログに書くことにします。

 

今回はこれで。

最後まで読んでくれてありがとうございました!

 

芥川龍之介「手巾」

「手巾」は芥川龍之介が書いた小説であり、1916年10月に『中央公論』にて発表されました。

なんて読むか迷いますが、読み方は「ハンケチ」です。

 

芥川龍之介と言えば、「羅生門」や「蜘蛛の糸」を書いた作家と知られ、芥川賞でおなじみの作家ですね。

誰しも一度は読んだことがあるではないでしょうか。

 

そうえいば、この前友人に太宰治の作品は?と聞いきたら「羅生門」と返ってきてびっくりしました笑。

文学にあまり関心がない人は、そこらへん曖昧なのかもしれませんね。

少し悲しいです…。

 

そんなことはさておき、「手巾」は次のようなお話であります。

 

***

東京帝国法科大学教授、長谷川謹造先生は、ストリントベリの作品を読んでいました。彼の専門は植民政策の研究ですが、大学教授の傍ら兼ねている高等専門学校の生徒が愛読しているため、専門でもない本も読みます。

また、彼はアメリカ人の奥さんと結婚しており、ベランダにはそんな彼女が吊した岐阜提灯があります。

先生は岐阜提灯を眺めつつ、日本の文明や武士道を思います。

 

そんなところに西山憲一郎の母・西山篤子という人物が訪れます。西山というのは先生のところへ出入りしていた学生でした。

西山憲一郎はイプセンなどの評論を書く生徒で、春に大学院生になったのですが、病院に入院していました。

容態を聞くと、彼は闘病むなしく亡くなったようでした。

悲しい出来事のなか、先生はあることに気づきます。それは、西山夫人が息子を亡くしたのに、少しも悲しい様子を見せないのです。

先生はふとした拍子に持っていた団扇を落とし拾おうとしますが、偶然夫人の膝が目に入ります。膝の上にあったのは、手巾を引きちぎらんばかりに握りしめ激しく震えている夫人の手でした。

先生は夫人が帰ったあと、奥さんにその話を聞かせると「日本の女の武士道だ」と夫人の振る舞いを称賛します。先生もそうだと満足に思いました。

それからしばらくして、たまたま先生は先程まで読んでいたストリントベリの本を開くと、ある一節が目に留まります。

私の若い時分、人はハイベルク夫人の、多分巴里から出たものらしい、手巾のことを話した。それは、顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技であつた、それを我等は今、臭味と名づける。

それから先生は不快そうに頭を振って、岐阜提灯の明るい灯を眺めはじめました。

 

***

 

西山夫人のふるまいは、感情を表に出さない行動であり、確かに日本人らしいと言えば日本人らしい。

しかし、そこで終わらないのが芥川龍之介です。

ストリントベリを引き合いに出し、婦人のふるまいを「臭味」とします。

この「臭味」、日本語で言えば「くさみ」と読むますが、今でいう「演技がくさい」というような意味と取れるのでしょうか。しかしながら、ルビで「メツツヘン」とドイツ語がふられています。

 

一体この西山夫人のふるまいはどういった意味で取れるのでしょうか。

あなたはどう思いますか?

様々なことを考えさせられる作品です。

 

 ***

 

少し日数が空いてしまいました。

一日書かないと、すぐ途切れていましますね。

継続は難しい。

 

あと、今回は芥川龍之介を扱いましたが、もっと日本近代文学を書いていきたいと思います。

しかし、あらすじを書くのに時間がかかりますね。

どうしましょうか…。

考える必要がありそうです。

 

ではでは、今回はこれで。

また会いましょう。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!