横光利一「春は馬車に乗って」
今回は横光利一の「春は馬車に乗って」です。
作品としては「蠅」や「日輪」が有名でしょうか。
「春は馬車に乗って」は1926年に『女性』という雑誌に掲載されたものです。
本作は病に伏せた妻とその夫の話です。
妻は病のために一日中天井を見つめる生活をしています。彼女は病気の苦しみからか「檻の中の理論」というものを持ち出し夫を責め立て困らせます。そんな妻にを落ち着かせため夫は理性的な対応をしながら、看病をするというのがこの話の大筋です。
この「檻の中の理論」というものがまた強烈です。
「ところが、俺が譬えば三分間向うの部屋へ行っていたとする。すると、お前は三日も抛ったらかされたように云うではないか、さア、何とか返答してくれ」
「あたしは、何も文句を云わずに、看病がして貰いたいの。いやな顔をされたり、うるさがられたりして看病されたって、ちっとも有難いと思わないわ」
「しかし、看病と云うのは、本来うるさい性質のものとして出来上っているんだぜ」「そりゃ分っているわ。そこをあたし、黙ってして貰いたいの」
「そうだ、まあ、お前の看病をするためには、一族郎党を引きつれて来ておいて、金を百万円ほど積みあげて、それから、博士を十人ほどと、看護婦を百人ほどと」
「あたしは、そんなことなんかして貰いたかないの、あたし、あなた一人にして貰いたいの」
「つまり、俺が一人で、十人の博士の真似と、百人の看護婦と、百万円の頭取の真似をしろって云うんだね」
「あたし、そんなことなんか云ってやしない。あたし、あなたにじっと傍にいて貰えば安心出来るの」
「そら見ろ、だから、少々は俺の顔が顰(ゆが)んだり、文句を云ったりする位は我慢しろ」
「あたし、死んだら、あなたを怨んで怨んで怨んで、そして死ぬの」
「それ位のことなら、平気だね」
上の引用は妻の「檻の中の理論」が現れている場面でありますが、看病している夫に向かってこんな理論を持ち出されたら、看病している方はまいってしまいますよね。
けれど、夫はなんとか自分を納得させながら妻の看病と、仕事(作家業)続けます。
そんな看病生活のなか、ついに医者から妻の命が続かないことを知らされます。
妻の死期を知らされた夫は、ショックすぎて彼女の顔をまともに見られなくなります。
「二人の間の扉は閉められる」と作品中で表現されていますが、愛する人がいなくなるという感覚はどのくらい耐えがたいものなのでしょうか。
私はまだそのような経験がありませんが、きっと世界が終わるくらいのものなんでしょうね。
つらい、つらいものなのだと思います。
夫妻は死を覚悟します。
そしてある日、そんな二人のもとに知人から赤いスイートピーが届けられます。
長らく寒風にさびれ続けた家の中に、初めて早春が匂やかに訪れて来たのである。
彼は花粉にまみれた手で花束を捧げるように持ちながら、妻の部屋へ這入っていった。
「とうとう、春がやって来た」
「まア、綺麗だわね」と妻は云うと、頬笑みながら痩せ衰えた手を花の方へ差し出した。
「これは実に綺麗じゃないか」
「どこから来たの」
「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ」
妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として眼を閉じた。
以上のように物語は閉じられます。
この話では、冒頭にはダリヤ、最後にはスイートピーというように花が登場します。
ダリアは夏から秋にかけて咲く花であり、スイートピーは春の花として知られていますが、これは季節の流れを示すものでしょう。
花が咲き枯れまた咲くように、2人の人生が幸せでも不幸せでも、時間は進んでしまうんですよね。
それでも、「恍惚」とした彼女の顔を見れば、彼女は幸せだったのだと思います。そして、そんな彼女の顔はきっと世界で一番美しいものだったんじゃないんでしょうか。
悲しくも人を愛することの大切さを教えてくれる物語でありました。
気になったかはどうぞ読んでみてください。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。