本を読み始めたこと。文学に触れ始めたこと。

今でこそ、月に15冊以上は本を読む私だけど、

昔から本を読むことがあまり得意ではなかった。

母や姉が本好きだったので、本のある環境だったのだけれど、正直テレビゲームの方が面白かった。

だからちょっと関心があれば読む程度で、小さい時、本の虫だったわけじゃない。

あの、よくわからないものを読み続けるということに耐えられなかったのだ。

 

本というか文章を読むのが嫌になったのは、大学受験で現役・浪人の2年ともセンター国語を失敗したことだ。

センター試験の国語でひどい点数をとったのだ。

それまで自分は国語ができるとは言わないまでも、苦手だと思ったことはなかった。

 

1年目、国語の試験を解き始めた時、わけが分からなかった。そのわけが分からなかったのは小説の問題だった。読んでも読んでも頭に入ってこず、次第に頭が真っ白になって、気づいたら試験は終わっていた。

これは浪人決定だなっと思ったのを覚えている。そして案の定、点数は半分も取れてなかった。

それから、国語の文章、特に小説の問題を見ると頭が真っ白になった。浪人中の模擬試験でも同じで国語の点数は芳しくなかった。

この経験は本当につらくて、文章が読めない自分が大嫌いだった。

だから本を読むのが大嫌いだった。

 

そして2年目、案の定試験の結果は酷かった。1年目よりも点数が低かった。

私が志望していた大学の学科は国語と英語の点数が2倍に傾斜配点が適応されていたので、国語ができなかったために、2次試験すら受けることができなかった。

理想の自分で入れないことが苦しくて苦しくて、センターが終わってから2週間寝込んだ。(インフルエンザにかかってた)

 

そんなんで、結局特に行きたい思っていなかった大学に入学した。

まぁ、よくある挫折というものである。

 

入学してから、あいもかわらず小説に対する苦手意識を持っていたのだが、ある時とある先生の授業を受けた。それは日本近代文学の授業で、その先生は文学は「面白い」と言った。

初め、この先生は何を言っているんだと思った。

正直なところ、文体の古い小説とかは、小説のなかでも大の苦手で、夏目漱石とか森鴎外とか持ってない他だった。

だって、難しいことを並べて結局何を言いたいのか分からなかったから。

本じゃなくても、ゲームとか音楽とかアニメとか面白いものは沢山あるのに、文学なんて古くさくて面白いわけないと思っていた。

 

でも、その先生の文学の授業は私が想像していた古くさいものではなくて、現代に接続される問題を含み、考えるものであり、とにかく面白かった。

 

そこからだ。

私が本を読み始めたのは。文学というものに触れ始めたのは。

 

私が思うに、文学には先人たちが思い悩んだ苦しみが書かれているのだと思う。

かつて、国語が出来なくて、劣等感に押しつぶされそうで、消えてしまいと思ったちっぽけな私の悩みでさえ。

 

また、私は生きていることが辛かった。

人と話がするのが、人より劣っていることが、人に嫉妬することが、理想の自分で入れないことが。

生きるのが苦しくて、いつでも死の誘惑があった。

どこか人とズレている感覚がありながらも、それを認めなくて必死に周りに合わせている自分が辛かった。

それは今でも変わっていないかもしれない。

 

だけど、文学はそんな私たちに寄り添ってくれるのだ。

 

文学は私にとって救いだった。

 

 

今、本を手に取る人は少なくなっていると思う。

でも、生きていることが苦しくて辛くて消えてしまいたいと思っている人がいたら、どうか本を手に取って欲しい。

 

人を救うのは物語であるからだ。

 

どうか、どうか、この文章が、苦しみのなかで叫びながらも生きたいと思っている誰かに届きますように。

李琴峰『彼岸花が咲く島』

今回は李琴峰さんの『彼岸花が咲く島』を読みました。

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*本ブログでの「私たち」とは日本語を話す日本人を指しています。

 

本作は第165回芥川賞の受賞作品です。

何かと世間では話題になったことですので、小耳にはさんだ人も多いのではないでしょうか。

 

作者の李琴峰(り・ことみ)さんは台湾出身の方で、日本語が第一言語ではありません。つまり、第二言語である日本語で執筆された本ということになります。

www.likotomi.com

公式サイトをみると、二言語作家として小説だけではなく、翻訳や通訳など幅広いご活躍をなされているようです。

 

ではでは、そんな李琴峰さんが書いた本作はどういった話なのでしょうか。

 

彼岸花が咲く島』は2021年6月に文藝春秋社から刊行されています。

島と言われている通り、話は記憶を失った少女が島に流れ着いたところからはじまります。

面白いのがこの島では、現実の私たちでも聞いたことがない文法大系を持つ言語が話されているということです。

もちろん主人公の少女(のちに宇実と名付けられますが)も戸惑います。

そんな宇実がこの島の謎を知るということが主な話の筋となります。

 

話されている言語は二つ。

まず普段島民が用いる〈ニホン語〉と呼ばれるもの。

もちろん、現実の私たちが使っている日本語ではありません。

例えば、次の引用は、主人公の宇実ともう一人の主要な登場人物である游娜(ヨナ)が会話をしている場面です。

「あなたたちが、はなしているのは、なにことば?」と少女が訊いた。

「ナニコトバ?」游娜は少し考えてから、やっと少女の質問の意味が分かったようで、こう答えた。「〈ニホン語〉ヤー!」

(・・・)

「いえは おかねが かからないの?」と宇実が訊いた。

「オカネ?・・・銭アー?いりしないア!住む家、何故銭いるナー?」

このようになんとなく意味が分かるけども、でもやっぱり私たちと異なる文法体系をもつ言語を話していることがわかります。

 

そしてもう一つの言語は〈女語(じょご)〉と言われるものです。

こちらの〈女語〉は現実の私たちが話している日本語と同じものです。

なぜこのことばが〈女語〉と言われているでしょうね。

 

また、海の向こうで育ったであろう宇実は、島で話されているどちらの言語でもない〈ひのもとことば〉を話します。

また、二人の会話場面を引用します。

「もう、つかれたよ」汗を垂らし、息切れしながら宇実は言った。「まったく、こっちは ぺーシェントなのよ、ひどくない? やさしくしてよ」

「ごめんラ!」

(・・・)

「ここにも くっついているから、セルフで とって」宇実が言った。

こんように〈ひのもとことば〉は日本語にカタカナ英語?が混ざった感じです。

 

この話を読みはじめたとき、正直頭が混乱しました。

だって、日本語?漢語?英語?どれでもないの?みたいに、似ているようで、違う言語が書かれていたからです。

 

しかし、読み進めば読み進めるほど、私たちが話している言語が絶対のものではないことを感じました。

というのは、やはり李さんが日本語を第一言としていないという背景を考えながら読んでからです。

 

昨今グローバル化にともない、私たちの言語の壁というものは薄くなっているかと思います。しかし、その土地で生きて行くには、その土地の言語を学ばなければいけないというのは依然変わりはありません。

つまりは、言語を学ぶ際に何かしらの問題を抱えている人々が身近にいるということです。

まして、日本では多くの人々が日本語で話すのですから、なおさらです。

また、日本には日本人だけが住むんでいるわけはありません。それこそ、最近では外国籍の方々も増えてきました。

だからこそ、第一言語である日本語をしゃべる日本人の私たちは、第二言語として日本語を話す人々のことを考えないわけにはいかないのです。

いや、考えなければいけません。

目をそらしていいことではないと思います。

 

李さんのバックグラウンドを含めて、日本語に関する問題を考えさせられる話でありました。

 

言語学に興味がある人や、日本語教育に興味がある人は是非手にとって欲しいと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

宮本輝『胸の香り』

今回は宮本輝『胸の香り』を読みました。

本作は表題作を含めた全7篇の短編集です。

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私は宮本輝さんがこの上なく好きなのですが、よく考えたらブログでは一冊も紹介していませんでした。

これは失態…汗

ですので、今回宮本輝さんの作品をブログに書けることを嬉しく思います。

 

また、ファンでありながら実は本作の存在を私は全く知りませんでした。

というのも、大学の先輩がこの作品を私に教えてくれたからです。

読了後にこの作品を読むことができて本当によかったと思うほど味わい深い作品で、巡り合わせてくれた先輩に感謝です。

 

こういう風に、私の知らない面白い本を誰かが読んでいて、まだまだ面白い本がこの世には沢山あるということを実感するので、読書というものはやめられませんね。

 

***

 

前置きが長くなりました。

本作の短編集は1997年7月に文藝春秋から刊行されています。

どのような短編集かと聞かれれば、人生に潜む影を描いたような作品です。

つまり、ハッピーエンドというような明るい作品ではなく、生きているうえで避けることができなような苦しみや悲しみが凝縮され、それが描かれている作品だということです。

 

当然ですが、人生というものはいつでも楽しいわけではありませんよね。

大切な人とケンカをしたり、親しい人がいきなり亡くなったりと嫌なことも多々あります。

そんな時、ふとしたなんともいえない暗い気持ちになると思います。

このような気持ちがこの短編集には描かれているのです。

 

例えば作品内では、不倫関係に疲れた恋人たちや異国の地で身籠った女性、道ゆく人に乞食をする親子など、見ているだけでしんどくなる人物が登場します。

現実にいたら思わず目を背けたくなるほどです。

 

なぜ宮本さんはこのような登場人物たちを描いたのでしょうか。

私は、宮本さんが誰かの暗い気持ちを描きたくてこの物語を書いたのではないかと思います。

登場人物たちはそれぞれ暗い気持ちを抱いています。その形はさまざまですが、それはどこかの誰かが抱えている苦しみや悲しみなのではないでしょうか。

私ではない誰かの暗い気持ちです。

そして、そんな暗い気持ちを読書という行為を通して感じ取ることで、私たちははじめて自分ではない他者というものを理解できるのではないでしょうか。

そう、他者理解です。

だからこそ、宮本さんはこのような物語を綴ったと私は思うのです。

 

また宮本さんの描写は思わずうなってしまうほど巧みな文です。

例えば次のような文があります。

私は母と娘が溶けかけたアスファルト道で何をしているかに気づいた瞬間、茫然となりながらも、自分のひからびた体から泉が湧くような気がした。

(「道に舞う」『胸の香り』文藝春秋、1999年7月)

この場面は作品の一つである「道に舞う」の引用ですが、主人公の「私」が乞食の「母」とその「娘」を見た場面の描写です。

「私」の衝撃が生々しく伝わってきますよね。

鳥肌が立ちました。

そのくらい宮本さんの文章は巧みです。

 

『胸の香り』はこのような話です。

よても味わい深い短編集なので、

宮本輝ファンはもちろん、そうではない方も是非一読あれ!

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!

 

 

 

与謝蕪村【月天心 貧しき町を 通りけり】

今日も与謝蕪村です。

このごろ与謝蕪村の句がなんだかものすごく気になるのです。

なぜでしょうか。

 

私は専門が近代文学ですのでこちらのほうに疎いですが、今回のように少しづつ勉強をしていきたいと思います。

 

引用しましたのはこちらの句です。

月天心(つきてんしん)

貧しき町を

通りけり

 

与謝蕪村

 

「天心」ってなんだろう?

岡倉天心の天心?とかふざけたことを思いますが、辞書で調べてみると以下の意味があるらしいです。

①空のまん中

②天帝・天子の心

(『角川新国語事典』角川学芸出版、1981年)

この句ではどうやら①の意味で使われていますね。

 

そうかんがえると、

「月が空のまん中にかかっている夜に、作者が貧しい町を通りぬけた」というような意味になるのでしょうか。

 

月は秋の季節ですので、この月は秋月ということになりますね。

 

ちなみに、国立天文台のウェブサイトによると

今年の「中秋の名月」は9月21日だそうです。

www.nao.ac.jp『© 国立天文台

 

21日は晴れるといいなぁ。

 

今回はこれで

それでは!

読んでくれた方、ありがとうございます!

与謝蕪村 【夏河を 越すうれしさよ 手に草履】

夏の暮れで涼しくなってきたと思いきや、また少し暑さが戻ってきました。

そんな今日は与謝蕪村です。

 

夏河を

越すうれしさよ 

手に草履

 

与謝蕪村の句は絵画的だと言われますが、

この句を読んだだけでも暑い中、冷たさをもとめて川に入った人間の情景が目に浮かびますね。

 

私は地方出身ですが、東京に来てからというもの川遊びというものをしなくなりました。

子どもの頃、川遊びをした記憶を思い出し、なんだか懐かしくなったと同時に、さみしくもなりました。

話すってなんですか?

最近、色々な方と話をすることが多いのですが、なんで人はしゃべるのでしょうか。

自分の意思を伝えるためというのはもちろん、相手のことを聞き出すための場合もあるかと思います。

 

しかし、私が最近考えるのは、なぜ自分の話を人にしたくなるかということです。

なかには、喋りだすと止まらずずっと話し続けている人も時折います。

話すとはコミュニケーションの一つだと思いますが、相手の話を遮って一方的に話す場合、相手は必要なのでしょうか?

 

もちろん、それが悪いことだとは思いません。

私だって発作的に誰かに喋りたいと思うことがあるのですから。

では、この発作的に話したくなる衝動はどこから来るのでしょうか。

 

私は私を知るために色々な人と話をしたいのですが、あまりにも一方的に話されるとほとほと疲れてしまうのです。

小林真大『「感想文」から「文学批評」へ:高校・大学から始める批評入門』

今回は小林真大『「感想文」から「文学批評」へ:高校・大学から始める批評入門』を読みました。

books.rakuten.co.jp

 

本書は小鳥遊書房から2021年2月26日に出版されたものです。

筆者の小林真二さんは現在インターナショナルスクールにて国際バカロレアの文学教師を勤めているそうで(2021年8月現在)、他の著書に『文学のトリセツ―「桃太郎」で文学がわかる!』(五月書房新社、2020年)があります。

books.rakuten.co.j

 

さて、国際バカロレアって何?という疑問を多くの方が持たれると思います。

国際バカロレア(IB)については、文科省のHPで次のように紹介されています。

国際バカロレア機構(本部ジュネーブ)が提供する国際的な教育プログラム。
国際バカロレア(IB:International Baccalaureate)は、1968年、チャレンジに満ちた総合的な教育プログラムとして、世界の複雑さを理解して、そのことに対処できる生徒を育成し、生徒に対し、未来へ責任ある行動をとるための態度とスキルを身に付けさせるとともに、国際的に通用する大学入学資格(国際バカロレア資格)を与え、大学進学へのルートを確保することを目的として設置されました。
現在、認定校に対する共通カリキュラムの作成や、世界共通の国際バカロレア試験、国際バカロレア資格の授与等を実施しています。

ibconsortium.mext.go.jp

海外の機関や企業で働く人、外交官の人らの子ども達に、国際的に通用する大学入学資格を付与することで国内外の大学に進学できるようにするという制度なんですねぇ~。

こんな制度があるなんて知らなかった!!

 

あまり聞き慣れない経歴の小林さんですが、調べてみるととてもすごい方なのがわかりますね。

私は英語がしゃべれない人間ですので、小林さんのような経歴の方を見ると、自分も国際的な視点を取り入れていかなければいけないなぁということをいつも思います。

 

***

 

前置きが長くなりましたね。

 

本書は文学の「批評」の入門書であります。

学校で書かされた「感想文」と「批評」、違うの?ということがよくわかる本であります。

「高校・大学から」という通り、かなり分かりやすく丁寧に書いてあるので、比較的読みやすいものであると思います。

 

「批評」とはそもそもなんぞや?

小林さんは批評力について以下のように言います。

自分の感想に客観性を加えるためには、どうすればよいのでしょうか?そのために欠かせないのが、批評力です。批評力とは、物事の価値を客観的に判断する能力のことを指します。

(中略)

批評力は自分の意見を効果的に述べ、相手を説得させるために欠かせない、重要なスキルともなっているのです。

なるほど、批評力があれば自分の意見を説得力を持って主張できますね。

そして、この本は「文学批評」なので、文学作品の内容や魅力、価値などを客観的・論理的に述べる方法をまとめたものと言い換えることができそうです。

 

さてさて、小林さんによると文学批評には6つの型があるとか。

① 作家論(作者重視)

② ニュークリティシズム(メッセージ重視)

③ 読者論(読者重視)

④  構造主義(コード重視)

⑤  イデオロギー批評(コンテクスト重視)

⑥  メディア・スタディーズ(接触重視)

 以上に本書では分けられています。

この6つの型はそれぞれが独立しているように見えますが、実はそうではありません。作家論を乗り越えるためにニュークリティシズムが、ニュークリティシズムを乗り越えるために読者論が生まれたというように、前の批評形態から新しい批評形態が生まれたという批評の歴史を踏まえたものであります。

いわば、本書は今まで行われきた文学批評の歴史=文学批評史がまとめられたものと捉えてもいいのかもしれません。

 

いつの時代も誰かが文学の批評を思いつくのだけれども、そこにはどこかしら矛盾や問題点があるので、それ乗り越えるために新しいものを考えてきたということですね。

 

実際にはどういったものなのかを本書では詳しく述べられているので読んで欲しいのですが、読むのはそんなに難しいというわけではありません。

というのも、新美南吉「ごんぎつね」や夏目漱石「こころ」といった皆が知っている話がその批評の例えとしてあげられているので、とってもなじみやすいものであるからです。

 

このように文学批評について書かれたものでありますが、最後に小林さんは文学批評がもつ社会的責任に言及しています。

作品を評価する際に私達は価値判断をくだしますが、そのなかで私達は「支配的なセンス」=「社会的に承認されている支配的な価値判断」を持って作品を価値判断します。

こうした「支配的なセンス」によって確立された作品は「人々の価値観に不可逆的な影響を及ぼす」と小林さんは言います。本書でもあげられていますが、夏目漱石を好きでもないのに学校で読まされることは、そのことを如実に物語っていますね。

つまりは、批評家は作品に価値判断を与えますが、そのことを通して社会的な価値観を変えてしまう危険性があるということですね。

そのことに自覚的にならなくてはならないということを小林さんは言いたかったのではないかと思います。

 

***

 

文学に興味があるけど何をしていいのか分からない方や、文学作品を論じてみたといった方は是非一読することをお勧めします。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。